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質量分析の基礎、イオン化編:大気圧化学イオン化(APCI)

 現在、LC/MSに用いられているイオン化法は、エレクトロスプレーイオン化(electrospray, ionization, ESI)を中心に、大気圧化学イオン化(atmospheric pressure chemical ionization, APCI)、大気圧光イオン化(atmospheric pressure photo ionization, APPI)などの大気圧イオン化法です。ESIのイオン化については、前のホームページ(既に閉じています)に投稿して、現在のホームページにも移してあります。しかしAPCIについては、前に書いたつもりが書いていなかったらしく、探しても見つかりませんでした。と言う訳で、今回はAPCIについてイオン化機構やイオン源の構造などを中心に書いてみます。

 APCIはその名の通り、大気圧下で行われる化学イオン化(CI)です。CIはGC/MSに用いられるソフトイオン化の代表例で、メタンやイソブタン、アンモニアなどを試薬ガスとして、以下のようなプロセスで分析種イオンが生成します。CIでは(APCIでも)、分析種分子に対して試薬ガス分子が大過剰に存在している事が必要です。

先ずは、大過剰に存在する試薬ガス(R)がEIによってイオン化してR+が生成し(式1)、それが他の試薬ガス分子からプロトンを引き抜いて[R+H]+が生成します(式2)。そして、プロトン化した試薬ガスと分析種分子(M)との間でプロトン移動が起こり、分析種のプロトン付加分子([M+H]+)が生成します。

 

 APCIのイオン源の概略を図1に示します。APCIでは、移動相に用いられる水やメタノール、アセトニトリルなどの溶媒分子が、試薬ガスとして作用します。分析種分子がイオン化する機構はCIと同一ですが、全体としては少し違い、以下のような式で表せます。

図1 APCIのイオン源の概略

 

ネブライザーガスとして用いている窒素が、そのイオン化ポテンシャルの低さ故に、先ずイオン化してN2+が生成します(式4)。この時のエネルギー(E)は、放電電極とイオン取込細孔の間に発生するコロナ放電です。N2+が試薬ガスRから電子を引き抜いてR+が生成し(式5)、それ以降式6と式7は、式2, 式3と同じ機構です。

 CI同様、試薬分子は分析種分子に対して大過剰に存在する事が、イオン化効率の観点から有利であるため、移動相流量は1 mL/min程度が適しています。これは、移動相流量が少ない程高いイオン化効率を示すESIとは真逆の特徴です。ESIとAPCI、イオン源の構造は非常に似ていますが、イオン化機構は全く異なります。ESIは液相でのイオン化、APCIは気相でのイオン化です。気相でのイオン化において、分析種分子は気相単分子状態すなわち完全に脱溶媒されている方が有利であるため、APCIはESIよりも高い脱溶媒温度が設定されます。そのため、分析種が熱に不安定な場合、APCIには不向きです。ESIとAPCIの脱溶媒プロセスの違いについては、このブログを参考にしてください

 加熱による気化を伴うという点において、CIとAPCIは共通しています。一方で相違点もあり、それは、加熱される際の分析種分子の状態です。CIは、試料導入がGCからにしろ直接にしろ、静止した溶液(1~2 µL)の状態で300 ℃程度に加熱されます。一方でAPCIは、試料溶液は移動相溶媒と共に高圧窒素ガスで噴霧され、微細な液滴(pLレベル?)となり高速で気化管の中を通過します。APCIにおける液滴の速度、即ち液滴が気化管の内部をどれくらいの時間で通過するか? については、なかなか参考文献が見当たらないです。日立製作所が開発したソニックスプレー(sonic spray ionization, SSI)では、液滴の速度は音速(約330 m/s)に達するとされています1)。仮にAPCIの液滴速度がSSIの1/10だと仮定し(約30 m/s)、気化管の長さを30 cmとすると、液滴が気化管を通過する時間は約10 µsとなります。GC-CIやDI-CIにおいて、試料溶液がどの程度の時間加熱されて気化するかについても定かではありませんが、恐らく秒単位でしょう。分析種分子が与えられる熱エネルギーという観点からは、APCIはGC-CIやDI-CIよりも遥かに低いと言えるでしょう。APCIでイオン出来る分析種には、ある程度の揮発性と熱安定性が求められますが、その程度はGC-CIやDI-CIの比ではない、と言う事です。

 イオン化自体についても、その機構はCIとAPCIは非常に似ています。と言うより、イオン化機構自体は同一と言って良いでしょう。しかし、低極性化合物(ほぼ無極性)のイオン化については、CIとAPCIではその傾向は大分違うように思います。例えば図22)に示す例では、炭素数20程度の4種類の炭化水素が全てCIでイオン化され、[M+H]+が生成しています。これらがAPCIでイオン化出来るかを考えると、文献は見当たりませんし、私の予想では、少なくともn-ParaffinやBranched-Paraffinについては、恐らくイオン化しないと思います(あくまでも予想です)。これらがAPCIではイオン化しないと仮定して、ではCIとの違いはどこにあるのか? 私は、以下の2つの要素があると考えます。

図2 炭化水素類のEI, CI, FI, PCによるマススペクトル比較2)

 

 

  1. 試薬ガスの種類とプロトン親和力

式3あるいは式7は、プロトン化した試薬ガスと分析種分子とのプロトン移動によって起こりますが、この反応の起こり易さは、試薬ガス分子と分析種分子とのプロトン親和力の差が支配的です。即ち、分析種分子のプロトン親和力が高ければこの反応は起こり易いでが、試薬ガス分子のプロトン親和力が高ければこの反応は起こり難いです。例えば、試薬ガスとしてイソブタン(CI)とメタノール(APCI)を用いて、同じ分析種を測定した場合、メタノールのプロトン親和力はイソブタンのそれより大きいために、メタノールを試薬ガスに用いた場合の方が、分析種分子にプロトンが付加する可能性は低いと考えられます。

 

  1. 試薬ガスイオンと分析種分子との衝突頻度

試薬ガスイオンと分析種分子との間でプロトン移動反応が起こるためには、そもそも両者が衝突する必要があります。CIとAPCIのイオン源の真空度を比較すると、CIは真空中(約2 Pa)、APCIは大気圧であるため、分子-分子の衝突頻度は、大気圧下で用いられるAPCIの方が高いです。しかし、CIの真空度は、CIの反応ガスが充填されているチャンバー内の真空度ではなく、多くの装置でイオン源を排気しているターボ分子ポンプの上部にある真空計で計測されます。EIの場合はチャンバーと排気ポンプ上部の真空度に大きな差異はありませんが、CIの場合、非常に密閉性の高いチャンバーに試薬ガスを高密度で充填しているため、EIに比べると真空度は著しく低くなっている筈です(チャンバー内の真空度をピンポイントで計測するのは不可能ですが)。

更に、CIチャンバーの体積は、メーカーにも依りますが概ね10 mm3 (1 mL)でしょう。一方のAPCIは、イオン源内部の体積全体では、例えば直径20 cm・深さ10 cmの円柱状の空間として約3.1 L、CIの3,000倍程にもなります。しかし、APCIで実際にイオン化に関与する部分は、放電電極とイオン取込細孔との間に発生するコロナ放電が起こる場所、具体的には電気力線に沿った場所、です。その空間体積はかなり狭く、実測は困難ですが大体CIと同じ1 mL位ではないかと思います。

イオン化が起こる空間的環境と言う観点からCIとAPCIの違いを考えると、2つあると思います。1つは、分析種分子が、イオン化が起こる空間に存在する確率です。CI(GC-CI)では、GCカラムから溶出した分析種分子は、全てCIチャンバーに導入されます。しかしAPCIでは、分析種はスプレーされる時に拡散するため、分析種分子が、イオン化が起こる空間に導入される確率は高くありません。恐らくは10%程度以下でしょう。2つ目は、イオン化が起こる空間の密閉性の違いです。CIは、1 mLの小さなチャンバーに試薬ガスが高密度で充填されており、密閉性を高く保つためにチャンバーに設けられた幾つかの孔(電子線を導入する孔やカラム先端を導入する孔など)は、非常に小さく設計されています。一方のAPCIは、イオン化が起こる空間は所謂大気開放のような状態になっており、密閉性が高いという事はありません。

長くなりましたが、CIでは密閉性の高いチャンバーに試薬ガスが高密度に充填されており、そこに分析種分子が効率よく導入されるため、試薬ガスイオンと分析種分子との衝突頻度は、APCIよりも高いと考えられます。図3にCIチャンバーの概略を示します。

図3 CIチャンバーの概略図

 

今まで考察してきたCIとAPCIのイオン化について、分析種がイオン化する時の機構は両者で基本的には同じですが、加熱・気化の機構およびそれによる分析種へ与えられる熱エネルギー、試薬ガス分子のプロトン親和力、イオン化が起こる空間への分析種分子の導入効率、その空間における分子とイオンの密度、などの違いにより、両者でイオン化出来る化合物の種類や性質はかなり異なります。

 

 LC/MSに用いられるイオン化は、ESIが主でAPCIは補完的に用いられる事が多いです。しかし、試薬ガスイオンと分析種分子とのプロトン移動によるイオン化は、分析種にある程度の揮発性があれば、即ち液滴の加熱・気化によるプロセスで熱分解を起こさなければ、広範な性質の化合物をイオン化出来る汎用性の高い方法です。タンパクやペプチド、多糖類、DNAなど、加熱によって分解してしまう不安定な生体高分子はそもそも対象外ですが、低分子化合物であればESIよりAPCIをファーストチョイスにするのも良いと考えます。

 

文献

  • Hirabayashi, J. Mass Spectrom. Soc. Jpn., 47(5), 289-296 (1999).
  • 日本電子アプリケーションノート、MS-Tips No. 285 (2018).
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